田舎っぺとして。

思ったことはすぐに書こうと思う。

私は現在雪が多く降る場所に住んでいる。雪になじみのない方にとって、雪とは幻想的なものであり、きれいなものだろう。雪といえばスキー、スノボ、雪だるま。そんなところなのかもしれない。しかし豪雪地帯に住む者にとって、雪とは我々をいろんな意味で殺しにかかってくる化け物なのだ。雪が降れば、雪かきをしなければならない。都会に住む皆さんと違い、田舎の大抵の足は車である。車が動かなければ仕事にも行けない、買い物にも行けない、やりたいことが出来ない。それが田舎なのだ。怠け者は死に働き者が生き残る。まぁ実際のところ本当に死者が出ることは稀だし、基本は助け合う。ただし気を付けてほしい。基本的に人は自分のために生きる生き物だ。自分自身の為にやったことが、たまたま人の為になったに過ぎない。これが奇妙な「協力」という形になっているだけだ。始めから人に期待して、自分が動かないなど言語道断である。もしも本当に田舎に住みたい、と思っている方はその辺を覚悟してきてほしい。

さて、ここまで歪んだ田舎っぺによる主張を述べてきたが、結局のところ私が何を言いたいかというのは、田舎っぺはもっと自分たちに自信を持つべき、ということである。現在多くの事で何をするにも都会に行かなきゃだめだ、とにかく都会にでなきゃ。そういう風潮がある。実際都会に行けば多くのチャンスが転がっているだろうし、田舎よりは便利な暮らしが待っているだろう。実際私も東京にすぐにでも出ていってやりたいことがある。でも本当に都会に行けば、好きなことは見つかるのでしょうか。やりたいことは転がってくるのでしょうか。多くの人はそこで適応してしまい、結局他人と同じように生きることを強いられるのです。

ではなぜ私は田舎っぺに対して、自信を持てなど言うのでしょうか。答えは簡単です。田舎っぺは、都会の人とは比べ物にならない、自然の中や逆境の中で生きるための術を様々な環境から見つけ出しているからです。田舎っぺは、上でも述べたように動かなければ自分の首を絞めます。だから生き残る術を必死で考えるのです。どんな小さなことでも、問題解決のため頭を使っているのです。だからこの考える力を、自分が好きだと思っているものに対して、行使したらよいのです。

こんなことを言っていると、都会の人よりも田舎の人のほうが優れていると思っているんじゃないか、と言われるかもしれませんが、田舎の人には最大の弱点があるのです。

それは非常に保守的なのです。正確には今の生活とは違ったことや奇抜なもの、人と違ったことをすることがあまり得意ではないのです。この理由としてはあまりにコミュニティが狭く、自分の情報があまりにも簡単に広まってしまうからだと考えています。だから田舎の人は、人と同じことをするのが当たり前、という思考が刷り込まれてしまうのです。

私は「安定」というのが良いことだとは思いません。「現状維持」に勤しむのはただ考えることを放棄したことだと思います。だからこそ、一歩自分の好きなことに踏み出すことが大事なんだと思います。もしも今自分にとって一歩を踏み出せないなら、その一歩を踏み出すための準備をしたらよいのです。

今の時代本当に便利な世の中だと思います。都会じゃなきゃできないことなんて、どんどん少なくなっていると思います。だから田舎に生まれたことを悲観するのではなく、自分の成功の為に都会を利用するくらいの気持ちで夢への準備をしましょう。

ブログを始めてよかったと最近本当に思います。

自分の思考が深く鋭くなりつつあることが、最近一番楽しいです。

心地よい不快感

今回は前回の続きを書こうと思ったが、とんでもなく書きたいことが出来たのでその本能に従おうと思う。

つい数時間前に「傷物語 冷血篇」を見てきた。こんかいはそれについて感じたことを書こうと思う。非常に興奮しているため支離滅裂な日本語になっていると思うが、ご了承願いたい。なおネタバレに関してはほとんどないと思うので、その辺は安心してもらいたい。

さて、私は一応「物語シリーズ」については中途半端な見方をしている。原作は見てないが「化物語」と「偽物語」は見た。また「終物語」は1話も見ていない。今回の「偽物語」については「鉄血編」「熱血編」ともに見たものの、そこまで強い衝撃は無かった。せいぜい良作といったところだ。しかし今回の「冷血編」を見て、帰り道、車の中で笑い、そして泣いた。たまたま今の自分のど真ん中を貫いていくような作品だった。見る人によっては傑作だ!という人や駄作だ!という人もいるかもしれない。私が感じたのは、タイトルのように「心地よい不快感」である。

映画を見終わった後、始めに感じたのは「西尾維新は天才だ。」ということであった。しかしこの考えはすぐ切り捨てた。結果的だけ見れば誰もが思いつくような内容だからだ。貧相で、ポップで、下賤で、退屈な、そんな作品だっただろう。しかし反対にとんでもなく豪華で、重厚で、高貴で、興奮するような作品でもあった。恐らく西尾維新は、「天才の道を歩んできた凡人」か「凡人の道を歩んできた天才」なのだろう。彼自身が曖昧な「怪異」のような存在だから、こんな作品が作れたのだろう。恐らく私の人生に大きな「傷」を残した作品だ。だからといってもう一度見るか?と聞かれれば、恐らくもう一度は見ないだろう。現在私が曖昧な「怪異」のような存在だから、この作品は私のど真ん中を貫いたのだろう。

さて、今までは私の感情のみ伝えてきたが結局何が言いたいの?と聞かれたらたった一言だけ、

「こういう作品の特等席に座りたい。」

特等席が何なのかは分からない。でも私の今いる環境ではない、ということを確信した作品であった。結局僕は破滅したいし、成功したい生き物なのだ。

作品の内容に触れるなら、羽川さんが言った一言に尽きるだろう。

「罪を罪で重ねないで」

生物は知能を持ってしまえば、頭ではわかっていても本能でこれをやってしまうのだ。

とにかく、今西尾維新にあったら、抱きしめたいし、ぶん殴りたい、そう思った作品でした。

これを見て、荒らしたければ存分に荒らしてください。感銘を受けたなら、いくらでも褒めてください。以上

自分の中の気づきについて。

引き続きご覧いただきありがとうございます。
前回自分自身の事を書きましたが、今回は前回からの続きとなっています。

言葉への思いに気づいたのは今からほんの1か月ほど前です。
前回記したように私はある資格を取れる学校に行っているのですが、大きな試験で不合格になってしまいました。確かに勉強はしていなかったし、やる気も全くありませんでした。落ちるべきして落ちたのです。しかし、大きな試験とはいえ多くの人が受かるような試験です。勉強をしてなかったのにも関わらず、私は非常に大きなショックを受けました。それと同時に非常に焦りました。ヤバい、どうしよう、これは誰にも言えない。こんな考えが頭の
中をぐるぐるとイタチごっこのように巡りました。そこでふと思ったのです。

なぜ勉強しなかったのか。

その答えとして、何よりもつまらないからだと思いました。普段ならここでじゃあ興味を持たなければ、と思うのですが今回は違いました。次に私の将来を考えました。今後この資格を取得し、それを用いて働く姿。更にそんなことが今後40年以上続くことを。ここまで考えると次の思想に移ります。

仕事ってなんだ?

周りの多くの人が仕事に対して嫌だな、やりたくないな、そう思って働いています。勿論一部の人は働くのが楽しい、やりたい、と思っている人はいます。ここの違いは何か、ここに注目しました。自分の中の結論として、自分の中の好き、楽しいと思える事の何%を仕事として置き換えることが出来るか。これが自分の中の結論でした。
こんなことを言うと、そんなの学生だから言える、社会人はそんなに甘くない、こう思う人がほとんどでしょう。そんな人にたった一言だけ言いたいことがあります。

なぜあきらめたのですか?
 
自分より才能の優れた人は何人もいます。どんどん成功している人もいます。その人たちの表情を見てください。楽しそうじゃありませんか?もしくは本気で悩んでませんか?好きだからこそアイディアは豊富に出てくるし、自信もある。よりよくするために知識もつけるし、魅力的な人間にもなる。こういうものではないでしょうか。そこにお金やら安定やら立場やら考えるから自分の気持ちに正直になれないのです。純粋に自分の中で最も好きだ、この為なら一生考え続けられる、これが大事なのです。「それが好きになることが出来る」という一種の「才能」なのです。そしてそれが結果として成功者への第一歩だと思っています。

ここまで考えられたらあとは簡単です。自分の中の好きな気持ちのみを抽出すればいいのです。
私は人が好きです。正確には人の感情が好きです。更に言えばそれを「言葉」で表現できないところが好きです。でも心の底ではそれを言葉で表現したいと願う自分がいます。
次に私は視覚から得られる情報以外の感覚から得られる情報に心動かされます。その中でも音が好きです。正確には耳から入る情報に最も心が動かされます。歌を聴いて泣くことも多いし、笑うことも多いです。
根底はこの二つです。正直まだまだ好きなこと、ものはありますし まだまだ書き足りないです。

今回は私がどうやってそこに気づいたか、ということを書きました。次は自分が今後何になりたいか、ということを書きたいと思います。

見てくださりありがとうございました。 

私自身について。

見てくださってありがとうございます。
最初に興味ないとは思いますが大まかに私がどんな道を歩んできたかを書きたいと思います。

現在私はとある資格取得のためだけのような大学に通っています。
元々何かに強く打ち込んでいたというわけでなく、兄がやっていたサッカーを兄にあこがれて 小、中、高校の約12年間やっていました。たまたま小学生にしては体格がよく、割と知っている人は知っている選手でした。当時を振り返ってみればかなり慢心していたと思います。そんな選手が伸びるはずもなく、高校に上がるころには、技術的にも、体格的にも優れたもののないボチボチな選手になってしまいました。しかし、一度でもいい思いをしてしまうと中々抜け出せないもので、サッカーを楽しめないまま高校の3年間を過ごしてしまいました。こんな中途半端な自分でしたので、やりたいこともなく、勉強にも真剣に取り込まず、大学受験にも失敗し、親から勧められてとりあえず資格を取るための大学に入ってしまいました。
大学に入って1年くらいは一人暮らしが楽しい!やりたいことができる!と生活していましたが、少しずつ今やっている勉強に熱意を持てず、また友人とのヅレから心が病んでしまいました。それでも何とか進級し、少しずつ心も落ち着いてきて、最近様々なことを考えるようになりました。今後どうしたいか、今からの人生この資格だけで生きていけるのか、今後40年以上生きる上でこんなに興味がないもので生き続けることができるのか、いろいろ考えました。

その先に見つけた自分の素直な心が、意外にも「言葉」に対する深い思いだったのです。
このブログを書いているときに思い出したのですが、上記に書いた自分も自分の一部ではあるのですが、私はサッカーを本格的に始める前は、図書室の先生とおしゃべりをし、本を読むような内向的な子供でした。おしゃべりは常に聞く側(現在もそうだが)、人の顔色をうかがうような子供でした。
これが自分の根底で十数年燻ぶっていたのです。 
次の記事でこの燻ぶりにどうやって気づけたかを書きたいと思います。 

まず始めに。

初めてご覧くださった方、ありがとうございます。
泳ぐゴリラと申します。名前の由来に関しては 、海が好きだった、ぱっと思いついた動物がゴリラだったからです。

私がブログをやろう、と思った理由は自分の考え方や思い、今後の事をどうしても言語化したかったからです。
専門的なことは何も言えないし、何か特別なものを持っているわけでもありません。
ただ自分の中で「言葉」というものを大切にしたい、どうしたら「言葉」が伝わるか、とにかく「言葉」を伝える手段として始めて見ようと思いました。

どれだけ続けられるか分かりません。ただ自分の心に素直になって、思ったことをできるだけ毎日書きたいと思います。