実用性という呪い。

私は昔から「役に立つことを勉強しなさい。」と言われ続けてきました。役に立つことというと、社会に貢献するようなある種の「常識」と言われるものでしょう。それを学ぶことは当然ですし、それを学ぶことによって、将来安定したものになるのでしょう。

もう一つ言われ続けたのは「人に従わされることについて」ということだ。多くの人々は現在「会社」という組織の中で上下関係を持ち、従う側にいると思う。正直な話、それが普通なのだ。年を取り、経験を積み、ある程度安定して、ある程度昇給し、結婚し、子供が出来、家族に看取られながらゆっくり死んでいく。これが多くの人が描く幸せであり、それの為に多くの人は勉強し、就職する。こういった人生はすべてがゆっくりとステップアップする。決して急な変化を望まないし、急に自分自身を変えようともしない。ある意味日本人の美徳であるし、社会の残酷なところだ。

話を戻そう。私は常に「実用性」とそれについての「必要性」を問われてきた。これは脳に染みつき、思考を停止させ、ある意味呪いとも、教育ともとれるものだろう。

しかし私は疑問を感じた。「役立つ」とは何を指すのか。社会のため?恋人のため?親のため?家族のため?何かに役立つことを追求することが自分の人生なのだろうか?私の人生は常に誰かに捧げ続けなければならないのか?

つまり私の中には「人に従い続ける精神」と「人を従わせる精神」というのが存在していた。そこで考えたのが以下のブログで記したものである。

自分の中の気づきについて。 - 泳ぐゴリラのつらつら

これは自分の中でも画期的なもののように思えた。正直な話、始めから実用性を求めるなど無意味なものなのである。そもそも何が必要か、私の人生において何が大切なのか分からないのに闇雲に走ることほど無意味で、遠回りなものはない。何に興味があるのか?なぜそれに興味を抱いたのか?自分の中で追求し、追求を重ね、それに対しがむしゃらに向かい合って始めて「実用性」が得られ、いつしか人が集まるのではないだろうか。

実用性という言葉ほど、実用的でないものはない。多くの目の前の実用性は他人にとっても実用的なのであり、誰もが気づきうるアイディアなのだ。本当に実用的なものは実用的でないものや、基礎的なものの追求によってもたらされると思う。好きの追求は、いつしか他人を巻き込み、周りを巻き込み、多くを巻き込む。そんな世の中であってもらいたい。以上。